こんにちは。公益社団法人日本バリュー・エンジニアリング協会事務局の(ゆ)です。
2011年3月11日の東日本大震災から5年が経ちました。私は、昨年の夏に福島県川内村に住む友人を訪ね、3年半ぶりに通行止めが解除された国道6号線を車で北上しました。走り始めた地点と原発から数キロメートル近くの地点では、放射線量が100倍も違うのですが、もちろん目にも見えず匂いもしません。4年以上経っているのになくなってはおらず、畑のあちらこちらには放射性物質の入った黒い袋が山のように積まれていました。たった数メートルの違いで補償金が出たり出なかったりという不公平な問題も生じたそうです。住宅の問題等、その他の諸々の解決すべき問題は、5年が経った今でもまだまだ山積していると思いますが、VEを何とか復興に役立てていただけないだろうかしらと思います。
友人は、廃校になった川内村の小学校の音楽室を利用して(これも立派なVEだと思います)、原発事故災害を忘れないための考える資料館「感がえる知ろう館」を2012年に作りました。この資料館はNHK福島でも紹介されましたが、東京生まれ東京育ちである友人(私とは10歳からの付き合いになります)が大震災の4年前の2007年に川内村に移住したのは偶然ではなく、こういうことを発信することが使命の一つだったのかもしれないと私は思っています。
https://www.facebook.com/shiroukan/
資料館には、大震災当時、世界中から集まった小さなアートもありました。これらは、東京の画家の方が、世界中のアーティストに呼びかけて、福島のために作品を寄せ合おうという主旨で集められたそうです。南相馬と東京で展覧会が開催された後、最終的に友人が引き取り、今はこの「感がえる知ろう館」(ダジャレだそうです)に飾られています。
一つひとつは小さいけれど、そこに込められた気持ちはとても大きくて、温かな想いが直に伝わってくるようでした。目に見えない恐怖も依然として存在する一方で、目には見えないけれど、被災地や被災者の方々を気遣ってくださる世界中の人々の温かい気持ちが小さな教室に今もなお息づいているなんて素敵だと思いました。現在は校舎を取り壊す関係で(資料館の教室は残る予定だそうです)ご覧いただけないようですので、ご興味のある方はこちらをどうぞ。
https://www.facebook.com/100ArtworksforFukushima/
世界の人々の温かな想いにも感激しましたが、一方で、日本人のある中学生にも感激したことを覚えています。
大震災直後のニュースにもなりましたので覚えている方もいらっしゃると思いますが、当時の気仙沼市立橋上中学校の卒業生代表・梶原裕太君です。彼が卒業式で読んだ文章をちょうど3年前に改めて目にしたのは、ある神社のお賽銭箱の隣でした。東京都神社庁による「生命の言葉」という短冊が月替わりで置いてあるのですが、聖徳太子の「和を以って尊しとなす」等といった歴史上の人物の言葉が多い中、彼の「苦境にあっても天を恨まず」という言葉には胸を打たれました。
平成25年3月の「生命の言葉」として抜粋が記載されていましたので、今一度シェアさせていただきたいと思います。
『橋上中学といえば「防災教育」といわれ、内外から高く評価され、十分な訓練もしていた私達でした。しかし、自然の猛威の前には人間の力はあまりにも無力で、私達から大切なものを容赦なく奪っていきました。天が与えた試練というにはむごすぎるものでした。つらくて、悔しくて、たまりません。・・・生かされた者として頭を上げ、常に思いやりの心を持ち、強く、正しく、たくましく生きていかなければなりません。命の重さを知るには大きすぎる代償でした。しかし、苦境にあっても天を恨まず、運命に耐え助け合って生きていくことが、これからの私達の使命です。・・・後輩の皆さん、橋上中学校で過ごす「あたりまえ」に思える日々や友達が、いかに貴重なものかを考え、いとおしんで過ごしてください。・・・最後に、本当に、本当に、ありがとうございました。』
今年、成人式を迎えたであろう彼はたった15歳で、つらさを乗り越えようと懸命に自分達の使命について語っていました。日本国内はもとより、世界の人々から寄せられた温かな励ましに応えるためにも、私達大人は今一度、自分の使命について考える時ではないかと思います。使命を果すために人のライフサイクルにも生かせるVEも活用していただき、特に、国を動かす立場の方々には、梶原裕太君はもちろん、日本を応援してくださっている世界中の方々に恥じないような生き方をしていただきたいと願っています。
では、よい週末をお過ごしくださいませ。 (ゆ)